WEB松峰綾音

「je t’aime」その二    

初出ブログへ 2016-3-15

 今日は 『je t’aime』その一 に引き続き、ララ・ファビアンの代表曲 『je t’aime』(ジュテーム) のご紹介をしたいと思います。

「je t’aime」=ジュテーム=愛している
 この曲を訳詞した10年余り前には、ララ・ファビアンも、『je t’aime』も、日本での認知度は皆無に等しかったが、最近では、いくつかの日本語詞でも歌われるようになった。

 その中には、『愛している』という邦題がついているものもあるが、私は、タイトルには『je t’aime』がふさわしいのではと感じている。
 翻訳の介在を許さず、情念をぶつけるように歌い上げる、まさに「je’taime」という言葉そのものが、曲を覆い尽くしている気がするからだ。

「pure」

 

直訳か意訳か 〜ガラスの破片〜

 ファビアンのヒット曲には、ドラマチックで、抑揚が豊かで、彼女の伸びやかな声を存分に聴かせるものが多いのだけれど、その歌詞はというと、どれもかなり飛躍的で難解であるように感じる。

特に彼女自身による作詞は(『je t’aime』もそうなのだが)、音符に、言葉をパズルのように断片的にはめ込んでいるという印象を受ける。

 全くの私見ではあるが、一般的に言って、物語ることに重きを置いた曲は、詩自体が素直で、自ら理解されることを誘引しているような気がして、原詩にかなり忠実な日本語に置き換えてもすんなりとはまってゆくことが多い。
 一方、『je t’aime』のように、響きとイメージが先行するタイプの曲は、詩の方で、日本語に置き換えられることを拒否しているのではとさえ思われてくる。

 具体的に話を進めると。
 たとえば冒頭部分はこんな原詩から始まっている。(松峰対訳)

D'accord, il existait d'autres facons de se quitter
Quelques éclats de verres auraient peut-étre pu nous aider
Dans ce slence amer, j'ai décidé de pardonner
Les erreurs qu'on peut faire à trop s'aimer

  確かに、他の別れ方があった
  いくつかのガラスの破片がおそらく私たちを救ってくれたかもしれない
  この苦い沈黙のなかで、私は許すことを決めた
  愛し過ぎるために冒すかもしれない過ちを

 

 敢えて解釈を加えない直訳で記してみたが、内容が把握しにくいと思われるのではないだろうか?
 更に次のフレーズはこのように続く。

  確かに、私の中の小さな女の子は、貴方を度々強く求めた
  母親のように、あなたは私を包んで、私を守ってくれた
  私たちは血を分かち合ってはいけなかったのに、私はあなたから盗んだ
  言葉が尽き、夢が尽き私は叫ぶだろう

 

 秘密めいた、許されない関係の中での悲恋が思われるが、断ち切り難い執着を抱え、『愛している』と叫び続ける女性の情念がぶつけられてゆく。

 冒頭に立ち戻ってみると。
 「私はただ沈黙の中で貴方を諦めようとしたけれど、果たしてそれで良かったのだろうか。もっと別の別れ方があったのではないか。ガラスの破片がこの破局をもしかしたら救っていたかもしれないのに・・・」というような意味になるのだろうか。

 「ガラスの破片が私たちを救ってくれたかもしれない」などと日本語詞に置き換えたとしても全くピンとこないのは言うまでもない。
 「ガラスの破片」というキーワードに何を見るかということなのだろう。

 「ガラスのかけらが鋭く尖って胸を突き刺し、血が迸(ほとばし)り出る」
 私の中には、そんな映像が去来する。
 <胸の内をさらけ出して、命がけの修羅場に生きる覚悟が自分になかった>という後悔なのかもしれないと思える。

 飛躍するのだが、この原詩を前にしながら、私には漱石の小説『こころ』が思い出されてならなかった。
 主人公が友人Kの自殺した部屋の襖(ふすま)に迸った血潮を目にした時のような、そして主人公自身も青年に宛てた遺書の中で、「あなたは私の心臓を立ち割って、温かく流れる血潮を啜(すす)ろうとした」と記したような、鮮烈な情景が重なって浮かんでいた。

 そうして出来上がったこの冒頭部分の私の訳詞は次のようである。

   冷たく光る硝子の向こうに
   言葉もない 貴方との別れが見える
   私の心を 砕き尽くして
   流れるこの血を 浴びせたい

 訳詞とは、「できるだけ原詩に忠実な直訳であるべき」なのか、或いは「トータルで曲想がより効果的に伝わるなら、日本語として味わいやすい意訳であってよい」のか、という翻訳のもつ根元的な問題が興味深く思われる。
 私の『je t’aime』は、原詩に導びかれて生まれた新たな日本語詞と言えるのかもしれない。
 訳詞の世界の醍醐味を味わいつつの作業が続いた。

 

 日本語とフランス語 〜サビの熱唱〜
  『je t’aime』は後半部分で、以下のフレーズがリフレインされ歌われる。(松峰対訳)

  Je t'aime, je t'aime
  Comme un fou comme un soldat Comme une star de cinéma
  Je t'aime, je t'aime
  Comme un loup, comme un roi Comme un homme que je ne suis pas 
  Tu vois, je t'aime comme ça 

  愛してる 愛してる  
  気が狂ったように 兵士のように 映画スターのように  
  愛してる 愛してる  狼のように 王のように
  私ではない男のように
  わかるでしょう こんなにも あなたを愛している

松峰綾音

 これも様々な訳詩の方法はあると思うのだが、再び極言するなら、兵士でも映画スターでも狼でも何でも良いのではと思う。
 ただ脈絡なく激しくje t’aimeと叫び続けること、猛り狂う強い衝動がフランス語の語勢に乗って畳み掛けられ、一種の陶酔感が生まれてくる。
 そんな感覚から、私の訳詞のこの部分は、日本語に置き換えることをせず、敢えて、呪文のようにフランス語そのもので歌ってみることにした。

 いつもできるだけ忠実な訳詩を心掛けている自分には例外的な取り組み方になった作品だったが、その分、愛着も殊の外深い。
今度のコンサート(2016年8月)で久しぶりに取り上げたいと思っている。

                                              
                                                  Fin

 

(注 訳詞、解説について、無断転載転用を禁止します。
   取り上げたいご希望、訳詞を歌われたいご希望がある場合は、事前のご相談をお願いします。)

 では、ララ・ファビアンの歌う原曲をご紹介致します。 まずは正調から。

 こちらはコンサートライブ版ですが、客席と唱和した臨場感が伝わってきます。私がベルギーで聴いたライブはまさにこのような雰囲気でした。
  

 
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