『たびだち』 その二
「Puisque tu pars」 =「君は出て行くのだから」。
自由で可能性に満ちた世界を夢見て、故郷を出て行く「君」を、寂しさや祈りの中で見送る、そんな原詩である事は既に述べた通りである。
では、出て行く「君」と見送る「私」は誰なのか。
どんな設定の中であれば、より自然にこの詩を味わうことが出来るのか。
詩に溢れている思いを受け止め、イメージを膨らましつつ、けれど、物語を作り過ぎて原詩を狭めてしまわないよう留意しつつの日本語詩作りとなった。
いくつかの日本語詩
この曲の日本語詩は、何人かの訳詞者によって既に作られているのだが、その中から二作を紹介してみることとする。
『思い出の扉』、『お前の空を飛んでごらん』という邦題がそれぞれに付いている。
『思い出の扉』の中の「おまえ」は、家を出て独立してゆこうとする我が子で、「私達」はそれを見送る両親という設定の詩となっている。
内容は以下のように展開する。
人は<希望を求めて、自立してゆくのだから素晴らしいことだ>というけれど。引き留めるすべもなく、ただ自分たちはおまえの幸せを遠くから祈るだけだ。
もっとおまえを愛せたかもしれない
力が足りなかったことばかりが悔やまれる
でも今はもう遅いのだ もう遅い・・・・
という内容である。
離れてゆく我が子を見守る時の一抹の寂しさと、充分に愛を注ぎ切れなかったのではという後悔の念、そして前途の幸せを祈る親の切なる願いとに、詩の焦点があてられている。
一方、『お前の空を飛んでごらん』だが。
こちらは、男手一つで育ててきた我が子の旅立ちへの感慨を父が語るという設定である。
<自分の人生を大切にして自分のために生きる>ことを教えてきたはずなのに、なぜ今寂しさを感じるのだろう、と思いを噛みしめて、幼い頃の思い出を脳裏に蘇らせる。(・・・この辺りは完全に作詞と言える)
そんな思いを抱きながら、<翼を広げて大きな空へ飛び立ってほしい>と祈る切なさが伝わってくる。
この詩の我が子は、息子ではなく、どうやら「娘」で、それもまた、訳詞者の創意が加わっている。
原詩の性質によって、対訳にできるだけ忠実に仕上げたくなる場合と、イメージを拠り所にして創意を加えたくなる場合とがあると思うが、上記の二編とも、後者のタイプで、子供と親という関係に読み解かれていると言えよう。
|