原詩冒頭の対訳の一部を次に記してみる。
闇が訪れて来るから
それは風を越えて 忘却の歩みより高い山からではないから
理解が足りないことを学ばなければならないから
時には全てを与えることさえも必ずしも充分ではないと君は考えたのだから
君の心がより高なるのは他の場所だから
君を引きとめるには私達は君を愛しすぎているのだから
君は行ってしまうから
というように始まる。
冒頭から「puisque=〜なのだから」で始まる様々な文が綴られているのだが、これ自体が既に判じ物のようで難解で哲学的な内容になっている。
「闇が訪れて来るのだから」・・・「君は行ってしまうのだから」。
だからどうあってほしいと言うのか?
私達よりもっと君を愛してくれる場所に風が君を連れて行ってくれますように
人生が君に多くを教えてくれますように
君が自分自身に嘘をつかないでいてくれますように
いつまでも君が変わらないでいてほしい
チャンスを大事にしてほしい
放浪にあるとき戻ることを覚えていてくれますように
私達の別れを記憶に留めてくれますように
「君は行ってしまうのだから」、それだから、「私」は、<君の行く手に幸あれかし>と思いを贈る。はなむけの言葉を贈る。
けれど、今在る場所は君にはもはや窮屈で、脱出すべき枷(かせ)になっていて、そして、「私」自身も、いつの間にかその枷の一つになっていたのかもしれないと気付く。
一方では、そんな後ろめたさや寂しさもまた、この原詩から感じとれる気がする。
更には、未知の世界への希望は、未知であるがゆえの不安でもあるわけで、夢が挫折と表裏になっていることを予感させてもいる。
実は挫折の後にこそ、それを乗り越えてゆけるかという本当の試練が待っている。
そんな色々なことを思わせる、繊細な感性に溢れた原詩であるが、では、日本語詩を作り上げてゆくにあたって、実際にどのような場面設定の中でこれを伝えて行けばよいのか。
具体的なイメージを持たなければ味わいにくい詩と言えるかもしれない。
そんなことを考えながら作った訳詞、『たびだち』のご紹介をしてみたいと思う。
その二に続く
|