WEB松峰綾音

「もう何も 」    

初出ブログへ 2016-1-26

『Plus rien 』

『Plus rien(もう何もない)』が原題。バルバラ1968年の作品である。

 この曲を訳詞したのはもう随分前になるが、大好きな曲で、訳詞コンサートでもこれまで何回か取り上げている。

 思えばシャンソンの世界に触れるようになって、最初に心魅かれたのはバルバラだった。
 初めてステージで歌ったシャンソンも彼女の曲『リヨン駅』と『黒い鷲』だったかと記憶している。
 それからしばらくバルバラばかり夢中で聴き込む時期が続いた。

 そんな頃、偶然、CDショップで中古の「Barbara  Le soleil noir  〜私のシャンソン バルバラは歌う〜」という表題のついたLPレコードを目にして、かなり高価な値段であったけれど、すぐに入手した。

 

 

 1975年にPHILIPSから発売されたレコードである。
 40年前に・・・と思うとジャケットのバルバラの写真にも何かひどく感慨深いものを感じてしまう。
 バルバラは70年代から来日公演を何回か行っている。ちょうどこの時期、それに合わせて日本で発売されたLPレコードなのだろう。

 この中に『Plus rien』 が収録されていた。
 聴いた瞬間に何か心に強く入ってくるものを感じた。

 

 『もう何も 』

 冒頭の原詩は次のようである。

plus rien,  plus rien, que le silence,
ta main, ma main, et le silence,
des mots, pourquoi, quelle importance,
plus tard, demaim, les confidences.

 
(対訳) 

もう何もない もう何もない 静寂以外は
あなたの手 私の手 そして静寂
言葉 なぜ どれだけ重要なのか
後で 明日 秘密を

 

 このような調子で、短い言葉がポツポツと呟くように続いていく。
 1分36秒しかない短い曲に極端に少ない言葉が乗せられている。
 フランス語で書かれている原詩でさえ、こんなに言葉が限定されるのだから、ましてこれを日本語の音節にあてはめて行くのは至難の業であり、よほど日本語を厳選し、一語の重みを最大限発揮させて行かなければ詩として成り立たないと思われた。
 しかも原詩のシンボリックで飛躍的な表現から、この詩の情景(恋人たちの愛し合う夜を象徴的に描いている詩なのだが)を、その味わいを損なわずに日本語で再現することのハードルは高い。
 が、その分、訳詞する醍醐味満載の魅力的な詩とも言える。

 

 私の訳詞の冒頭は次のようである。
 上記の原詩を日本語に直しメロディーに乗せると、これぐらいの文字数でしか表せないことにきっと驚かれるのではないだろうか。

もう 何も 
深い夜
あなた 私 
手のぬくもり

 この歌い出しのフレーズは、実は2〜3回曲を聴いていたら自然に浮かんできた。
 日本語が真っ直ぐにはまり込んでゆく。
 夜の中に変幻する恋人達の吐息が聞こえてくるような、魅力的なメロディーライン、メロディーそのものに、誘い込まれるような独特なエロティシズムを感じてしまう。
 この曲の持ち味である、言葉だけを無造作に置いてゆくような作り方を日本語でもしてみたかった。

 なぜかふと浮かんだのは、山口洋子さんが作詞した五月ひろしの往年のヒット曲「横浜たそがれ」と、ジャック・プレヴェールのいくつかの詩、たとえば「朝の食事」とか「Paris at night 」とか。・・・・いかにも突飛ではあるのだが。

 

「横浜 たそがれ ホテルの小部屋 
口づけ 残り香 タバコの煙 ・・・・
・・・・あの人は行って行ってしまった もう帰らない」

と続く。

 昔流れていて、覚えたわけでもないのに今も口をついて出て来るのは、やはり名曲だからなのだろう。

 それに比して、プレヴェールの方は、すらすらというわけにはいかず悲しいが、でも、同様に、言葉だけがちりばめられてゆく短詩の中で、三本目のマッチが消えた後の暗がりや(「Parie at night」 )、コーヒーカップと灰皿を見ながら、手で顔を埋めて泣いている女の姿が(「朝の食事」)、目の前にくっきりと現れてくるから、こういう言葉の力に限りない憧れを感じる。

 何気ない言葉を(本当は何気なくはなくて、その組み合わせにおいて充分計算され独創的であることはいうまでもないけれど)、何気ないかのように置きながら,説明的でなく情景があふれ出してゆくような詩が書きたいと思った。

 冒頭から更に続く私の訳詞は次のようである。

言葉は後で
甘い唇
私は 狂う
あなたに くるまる
あなたも 狂う
闇を 転がる

 

 セクシュアルな感じがかなり強く伝わってくると思うのだが。

 「くるまる」について。
 「くるまる」か、「くるまれる」か。
 こういうことは考えていると段々わけがわからなくなってくる。
 「寝袋にくるまって寝る」「毛皮にくるまれて暖かい」
 「包まる(くるまる)」は能動的、「包まれる(くるまれる)」はやや受動的ニュアンスありととって良いのだろうか。
 定かではないけれど、私は、この詩の女性は「あなたに包まれる」のではなくて、「あなたに包まる」としたいと思った。

 そんなことはどうでも良いと思われるかもしれないが、訳詞をして行く時に、どの詩であっても、日本語の微妙なニュアンスや語感に、私は徹底的にこだわってしまう。

 『Plus rien 』、この原詩の中で、炎は揺らめき、火花は飛び散り、火柱は立ち昇る。メタフォア(隠喩)的効果だけれど、詩が丸ごと、光と色彩によって成立しているかのように感じる。

Pourpre et or et puis bleue(緋色に 金色に そして青色に)

 色彩心理分析ではないけど、炎のあるいは火柱の色の移り変わりをどうイメージするか?

 フランス人がこの詩を読む時、色から自然に浮かんでくる彼等固有のものがあるのだろうかと思い、何人かのフランス人の友人に尋ねてみたのだが、「自分たちだけの特別な色彩感というものはないと思う。

 

 この詩に書かれている通りにイメージが生まれる気がするけれど。」「わからない。詩だから。でも言葉が心に残る。炎の色が情熱的な恋を想像させる。」
 色に直結した固定のイメージについてはあまり気にしなくても良さそうである。

 説明的ではなく、極端に抑えた言葉の中で、映像よりも鮮明に、場面や物語や、人の思いや、表情までも浮かび上がらせる。
言葉の持つそんな底知れぬ力を引き出してゆけたらと、いつも思っている。

Fin

 

(注 訳詞、解説について、無断転載転用を禁止します。
取り上げたいご希望、訳詞を歌われたいご希望がある場合は、事前のご相談をお願いします。)
                     

 では、バルバラの歌う原曲をこちらのyoutubeでお聴きください。
  

 
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