メタフォール(隠喩表現)について
ところで、詩的修辞法の代表的なものに、具体的事物をそのまま多数並べることによってそこから受けるイメージを重層させてゆくという一種の隠喩表現<メタフォール>があるが、彼のほとんどの作品にはこの隠喩的表現が多用されているようだ。
「お茶の時間」の中では、モジリアーニ、ガブリエル・フォーレ、モーツァルト、ローラン・ヴルズィー、カラン・ルダンジェ、・・・・ 古今名だたる画家、音楽家、俳優等が登場してくる。
カラン・ルダンジェはフランスで人気の高い女優であり、原詩中で「彼」が「私」におしゃべりする話題の一つになっているのだが、この女優は私の訳詞の中には登場しない。日本の歌詞に置き換えたとき、一般的知名度の点で難ありと判断したことによる。
具象物そのものが享受者に熟知されていることがこのレトリックの成功の必須条件となるのではないか。
そのような意味で、この作法を多用する外国の詩人の翻訳は大変難しいと言えるだろう。そのまま写さないと忠実ではないが、受け取る方が知らなければ、「何のことだ?」と、共感を得られないばかりか、そこでイメージが断絶してしまう。
<l’heure du thé>の中では、人名以外でも更に具象物が続く。
カラメルティー、バニラティーは言うに及ばず、サン・セヴラン通り、ハム、ピューレ、蝋燭(ろうそく)・・・・。
サン・セヴラン通りは、実際には知らなくても、フランスっぽいどこかの洒落た通りだろうと感じられれば、それで良いのではと、訳詞の中に採用した。
ハム、ピューレ(マッシュポテトなどの裏ごし野菜)、蝋燭は、「お茶の時間」から「夕食の時間」へ、テーブルに供されたのだろうけれど、こちらは割愛した。日本語で突然出てきてもあまりイメージは広がらないと判断したので。
この<ハム、ピューレ>の類、言い換えるなら、異文化への理解とその伝え方の問題は、実はなかなか奥が深いのではないだろうか。
先ほどの<モジリアーニ・・・>も同様で、モジリアーニのポスターを部屋に飾り、モーツァルトとフォーレ、ローラン・ヴルズィーを聴く恋人たち、それを列挙するだけで、極言すれば、何も説明しなくても、その生活ぶり、習慣やセンス、部屋の様子、恋人同士のあり方まで見えてしまう。共通の土壌・文化であることが、メタフォールを成り立たせる重要な要素の一つと言えるのではないだろうか。
<原詩のニュアンスを出来るだけ忠実に、メロディーに乗せて伝えたい、しかも自然で美しく共感できる日本語で>というこだわりとどう共存してゆくか、難しいけれど、訳詞の醍醐味がそこにある。
東福寺のコンサート、お洒落で切ないこの曲のニュアンスを楽しんで頂けたらと思っている。
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