「ロスト・ソング」    

初出ブログへ 2015-02-19

 

 「ペール・ギュント組曲」  

 「ロスト・ソング」・・・メランコリックなサウンドに乗って,ジェーン・バーキンが儚げに吐息交じりで歌っているが,メロディーを聴くと,<どこかで聴き覚えがある曲>と思われるのではないだろうか。 

 

 作詞、編曲はセルジュ・ゲンズブール、彼がペール・ギュント組曲2番作品55「Solveig’s Song (ソルヴェーグの歌)」を下敷きにして、アレンジを加え、新たに詞を付けたものである。

 「ペール・ギュント」は,元々ノルウエーを代表する劇作家ヘンリク・イプセンの戯曲である。
 スウェーデンに古くから伝わる伝説上の人物をモデルにして描かれた作品と言われ、当初イプセンは上演を目的としない戯曲=文学作品として執筆したのだが、作品の加筆に伴い、これを音楽詩劇として舞台上演することとし、この作曲を当時30歳だった新進気鋭の作曲家グリークに依頼した。
 

 楽曲は全幕で23曲からなり,1876年に初演され大成功を収め、以後、グリーク自身が8曲をここから選び、二つに分けて組曲として再構成した。現在「ペール・ギュント組曲」として演奏され親しまれているのはこの形である。

 「ペール・ギュント組曲」との私の出会いは、中学一年の頃に遡る。「音楽鑑賞」という授業の第一回目に、この「ペール・ギュント組曲」が取り上げられたと記憶している。
 まず、物語のダイジェストを先生が解説して下さった後,二時間の授業の間、組曲全曲をただひたすら聴き続けた。
 静寂の中でクラッシック音楽に集中するのは、大人の世界に一気に踏み入るようでもあり、音楽が訴えてくる圧倒的な力を体感していた気がする。

 今朝、久しぶりに聴いてみたが、「朝」「オーゼの死」「アニトラの踊り」「山の魔王の宮殿にて」「アラビアの踊り」「ソルヴェーグの歌」,嘗て心に描いたイメージが、そのまま再び鮮やかに蘇ってくるようだった。 
 子供の頃の感覚というものは、思いの外鋭敏で侮りがたいものだと思う。

 そのようなわけで,この組曲には今も強い印象を持っているのだが,でも物語自体には、当時から必ずしも全面的には共感していなかった。

 

 「ソルヴェーグの歌」

 主人公の「ペール・ギュント」は、言ってみれば大言壮語の空想家で女好きな放蕩者であり、いくら、彼の波乱万丈の冒険物語といわれても,身勝手で我が儘な男が,考えなしに行動し周りを不幸にしているだけではないかと,密かに義憤を感じていたのを思い出す。
 

 中学一年の私は、特にペール・ギュントの、恋人ソルヴェーグに対しての仕打ちには納得できないものを感じていた。
 勝手に妄想や野望を抱いて放浪を繰り返し,純真一途な可愛い許婚の彼女を故郷に置いたまま、他人の花嫁を略奪したり、挙句の果て,落ちぶれて心弱ったときだけソルヴェーグの元に泣きついて帰る。
 
 それがわかっているはずなのに,恨み言一つ言わず,いつでも彼を許し,優しく迎え入れ,また送り出し,長い不在に耐え,老い傷ついた彼の最期を優しく子守唄を歌いながら看取るという彼女が,あまりにも哀れで衝撃的だった。

 「人形の家」など女性の自立をテーマに作品を書いていたイプセンが,なぜソルヴェーグのような女性をヒロインにしたのか、当時は、腑に落ちないままだったが,今になってみれば見えてくるものもある。

WEB松峰綾音

 前時代的な愚かしい従順さ、純粋さとも思えてしまうが、でも翻ってみると、本当に徹底して<信じること>、<待つこと>、<許すこと>は、究極の愛の形であり、真に聡明で揺るぎない心を持っていなければこれを貫き通すことは難しい。
 ソルヴェーグは、そういう自立した、強く美しい理想の女性として描かれているのではないか。
 加えて、他人には図ることのできない男女の愛情の機微を思えば、最後に自らの腕の中で恋人を看取った彼女は、悲しい愛の勝利者であったといえるのかもしれない。
 
 この音楽鑑賞の時間の最後に、日本語の訳詩で「ソルベーグの歌」を習ったことを思い出した。
 堀内敬三氏の訳詞だったのだが、この歌いだしは次のようである。
   
      冬は過ぎて 春過ぎて 春過ぎて
     夏も巡りて 年経(ふ)れど 年経れど
     君が帰りを ただ我れは ただ我れは
     誓いし儘に 待ちわぶる 待ちわぶる

   
 これは、何年頃の訳詩なのだろうか。
 イプセンの原詩の内容に、ほぼ忠実に訳されているが,文語体と相俟って今は非常に古典的に感じられ,ここには慎ましく誇り高いソルヴェーグの像がくっきりと刻まれている。

 

「lost song」

 では、ゲンズブールが「ロスト・ソング(原題lost song)」の中で描いた女主人公はどのような女性なのか。

 

 この曲「ロスト・ソング」は,1987年に発表された同名のアルバム「ロスト・ソング」に収録されている。

 先ほどから触れている「ペール・ギュント組曲」の中の「ソルヴェーグの歌」の旋律をそのまま採りつつも,重くスローなロック風のサウンドに替えて,曲中の女主人公の虚脱感を醸し出している。

 詩の内容は、ゲンズブールの完全オリジナルで,狂おしく燃え上がったはずの二人の恋はすれ違い,今や破局を向かえ,冷ややかに去って行く男への、女の思いが語られている。

 詩を読んだときにまず,「Dans la jungle de nos amours éperdues(狂おしいまでの恋のジャングル(密林)の中で)」という表現が強烈に心に飛び込んできた。
 それから,「私達は傷つけ壊し合い」という言葉にも、本来のソルヴェーグのなよやかで柔和な愛とは対極にあるような愛憎の世界が見えてくる。
 「愛は貴方にとっては賭け事のようなもので,このゲームで貴方の上に出ることがついには出来ず,私は敗北してしまった」と彼女は言う。
 嘘をつき,裏切り,ただ恋を弄び,今は白々しく他人行儀に振舞おうとする、貴方はそういう人なのだと言っている。

 イプセンが創り上げた原典の中の純潔無垢なソルヴェーグの心を反転させて,ゲンズブールは、この曲の中で、新たなソルヴェーグの像を描き出そうとしているのではないだろうか。

 <信じて、待って、耐えて、愛し続けて>の対極にあるものは何か。

 <耐えて待つ>というと、日本的、演歌的世界のような感じがするが、必ずしもそんなことはなく、シャンソンの中にも、待ち続ける女性の心情はかなり沢山歌われている。けれど、そのどの歌にも、<待つこと>に自分としての希望や意味を見据えて、主体的な意思が貫かれていて、これこそがフランス的な自我のあり方であり、香りであるのか、とも思ってしまう。
 「ロスト・ソング」の中の女主人公は、愛の不毛を見てしまったからにはもはやどんなに喪失感が深くても、待つことに何の意味も感じないと思い定め、恋に決着をつけようと佇んでいるように見える。
 ゲンズブールが生み出そうとしたソルヴェーグは、<待たない女性><切り捨てることを決断する女性>だったのではないだろうか。

 「ロスト・ソング」の原詩は次のように締めくくられている。

    私は認めていたし、わかっていた
   私がもう既に打ち負かされていたことを
   恐れが 貴方の傲慢が 私を殺す
   貴方はもう私のことを<きみ>ではなく<あなた>と呼ぶ
 

 この最後の部分の「私を殺す」という言葉にイメージを大いに喚起されて、私の日本語詩は以下のように閉じてみた。

    私は貴方のものじゃない 心が壊れてゆく
   優しげに私を呼ぶ 貴方の声が遠ざかる
   道に迷った 私の恋は 最後の悲鳴をあげる

 ゲンズブールの詩からのイメージを受けつつも、言葉としては完全に私の創作になっている。この日本語詩の中で、私は、愛の最後を見尽くしてしまった絶望を、脱却からのエネルギーに変えてゆく、そういう潔くしたたかなもう一人のソルヴェーグを生み出してみたかった。
 ソルヴェーグの姿を様々に思い描きながら、久しぶりにまたコンサートの中で歌ってみようかと思っている。
                        

                                 Fin      

(注 訳詞、解説について、無断転載転用を禁止します。 取り上げたいご希望、訳詞を歌われたいご希望がある場合は、事前のご相談をお願いします。)

 
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