主演のランプリングは当時20代半ば位だったのだろうけれど、平家の知盛ではないが、「見るべきものはすべて見つ」というような、全てを見尽くし諦めた絶望的、且つ、もはや何の救いも拒絶した退廃的な眼差しが、スクリーンから付き刺さってくるようで、ドラマを超えたぞっとするような凄みがあったのを覚えている。
この映画の始まり、上半身を露わにして、サスペンダーを身に付けナチ帽をかぶって踊らされる、収容所でのシーンは余りにも有名だが、ランプリング演ずるところの少女の、暗く闇を見詰めるような瞳が、余りにも悲惨で、これ以上見ていたくないというような、・・・・正直に言うと、これが私のこの女優への強烈な第一印象だった。
とは言っても、この映画『愛の嵐』の制作は1973年、もう40年近くも前であり、彼女は、このセンセーショナルな作品のイメージに繋がるような、ミステリアスで退廃的耽美的役柄を定着させていくことになる。
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その後、2001年、フランスの巨匠、フランソワ・オゾン監督の映画『まぼろし』の主演、大ヒットによって、・・・この時彼女は55歳・・・年を重ねる女性の美しさを切なく自然体で表現できる女優へとイメージを大きく転換してゆく『まぼろし』は、心に残る味わい深い映画だと思った。
この中の彼女からは、装飾をこそぎ取ったところにあるナチュラルな大人の美しさが感じられたし、大写しの映像に刻まれた、彼女の顔の皺までが、何とも言えない風格となって映し出されていたような気がする。
悲しみや苦悩が、年輪のように人生の中で重なって、その人を成熟させてゆく、・・・・・それこそが一筋縄ではいかない生きる醍醐味であり魅力である、・・・・そんな事が思われて、不思議な感銘を受けた映画だった。 |
ここまで、シャーロット・ランプリングの紹介を簡単にしてみたわけだが、それにしても。
「彼女は勿論、名女優ではあるが、歌手なのか? 本当に歌なんか歌っているのか?」と、訝しく思われる方が大半であるに違いない。
CDアルバム「comme une femme」
実は、ただ一枚だけ、2002年に「comme une femme」(一人の女性のように)というタイトルのCDアルバムを発表しているのだ。
フランス語も母国語のように巧みに操る事が出来るとはいえ、イギリス人の彼女がフランス語で歌うシャンソン・・・・初めは躊躇したそうだが、周到な準備の末、万を辞して作られたようで、アルバム収録の13曲、そのどの曲も、彼女の持ち味が発揮されたお洒落で洗練された大人の雰囲気に溢れている。
日本でも、キングレコードから同年に、日本語の対訳等も付いて日本盤が発売された。 日本名のCDタイトルは、『男を見つめる女のように』とされており、アルバムの中の「comme une femme regarde un home」(一人の男性を見つめる一人の女性のように)という曲のタイトルを、そのままアルバムタイトルとして採用したものだ。
今回取り上げる「le robot et la marguerite」は、当然の事ながらこのアルバムに収められた一曲である。
さて、このCDだが、私は結構気に入っている。
アルバム中の13曲それぞれが、全て物語を紡ぐように歌われていて、良質の短編が並べられた小説集を読み進んでゆく時のような面白さがある。
それぞれは全く違う設定の別の物語なのに、全部読み終わると、実はどこかでさりげなく繋がっていたような、一編を読み終えた後の余韻が、次に読む一編の感動を邪魔しないような、そのような印象を、このアルバムを聴く時に感じる。
一冊の短編集全体から、その作家特有の、テーマの持ち方や、感受性、表現の仕方などの独自な香りを感じ取る時と似た感覚なのかもしれない。
もう少し、具体的に言うなら。
全ての歌詞に、かなり明確な人物設定と、その人物らしい個性が盛り込まれていて、そこで物語が展開されてゆく。・・・それを歌うランプリングは映画の中で主人公を演じるように細やかに歌でそれぞれの人物を演じてゆき・・・・そのような演劇性がくっきりとしている点が、まず心に響いてきた気がする。
女優、ランプリングにシャンソンを歌わせることの最大限の利点を、誰かが巧みに計算して、曲作りを行ったのかもしれないし、或いは、彼女自身が意識するまでもなく、身についた女優魂のようなもので、自然となし遂げた技だったのかもしれない。
「シャンソンは3分間のドラマ」という言葉は、人口に膾炙(かいしゃ)されるところだが、シャンソンは言葉先行で物語を語ってゆくのが本道であるとすればまさに、女優や俳優がシャンソンを歌うことは理に適っているし、その絶対的な強みは否定できないだろう。実際、ランプリングに限らず、シャンソンを歌っている俳優や女優は枚挙にいとまない。
ところで、ランプリングの歌は上手いのかということだが、・・・・どうもあまり良くわからない。
声量は・・敢えてそうしているのかどうか、ほとんどない。
ハスキーボイスで、囁くように呟くように何となく歌い、語っているだけなので。(曲の半分くらいは、まさにセリフをしゃべっている)
けれど、このセリフが淡々と物憂げなのにもかかわらず、はっきりと聴き手の胸に届いて、映像を彷彿とさせて、さすが並のレベルではない。説得力抜群で、独り芝居に引き込まれるような、魅力を感じる。 |
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言葉が際立っていて、こんな風に音に乗せて言葉を伝えられたらと心底思ってしまう。
シャンソンのエッセンスをそっと振りかけられたような、少なくとも目指すべき一つの答えを示される気がして、なかなかなのだ。
『私は何もしない女』、『ヴァンプになりたかった私』、『恋の破産申告書』など、曲名を聴くだけで、「comme une femme」(一人の女性のように)というアルバムタイトルが納得できそうに、少しアンニュイな面持ちの女性たちが詰まっている。
この中で、「le robot et la marguerite」(ロボットとマーガレット)はむしろ例外的で、可愛いメルヘンのある作品なのだが、彼女の歌うこの歌が私はかなり好きなのである。
では、恒例の前置きが無事終わったところで、次回は、この訳詞の紹介を。 |
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その二に続く |