恋の駆け引きが、緩やかに流れるメロディーの中で、押したり引いたり巧みに織り重ねられてゆく。
冒頭からは、彼の口説き文句を前にし、それをどこまで受けて良いのか、彼女の戸惑う様子が感じられる。
「信じられるものは何かは分からないけれど、でも君に夢中で、僕たちは今、全てを共有しているのだ」と彼は言う。
でも彼女は彼が「どこか遠い目をして別のものを見ている」ことを既に見抜いている。
優しい言葉を言いながらも、「9月になったらこのパリから一人去って行こうとしていること」も感じ取っている。
言ってみれば彼は、束の間のアバンチュールを楽しみながら、彼女を「僕になついた仔猫」と呼ぶただの遊び人なわけだが、永遠を信じられない喪失感を心に深く持つがゆえに、外目には刹那的と思われても、これが、精一杯彼が示すことのできる愛の形なのだとも思われてくる。
そんな愛の不条理がこの詩の根底にある事を感じる。
私の訳詞の冒頭は次のように始まる。
今日も明日も
確かなものなんてない
まどろむ夢 夏の日差しを受けて
手を繋いだまま ただ時を過ごす
ライムソーダ
ベッドの中でひと息に飲み干す |
楽屋裏がわかってしまうが、これはもはや訳詞ではなく作詞。
原詩を読み込んで、心に広がったイメージから生まれた私自身の詩でもある。
「ライムソーダ」など全く出てこないのだが、作詞者のカミーユ・クトーも完全に元の原詩から離れているので、この詩については、私も同じことをしても構わないのではと勝手に考えてみた。
夏の昼下がりの恋人たちの時間には「カフェ・クレーム」より「ライムソーダ」が涼しげで良いのではと。
ここから、今回のコンサートタイトル 『ライムソーダの夏』が生まれたのは言うまでもない。
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