「私」は、<人は理性を超えた肉体と愛情との果てしない抱擁の中から生まれてくる>のに,<一旦生を受けたときから,様々な愛憎の苦悩に翻弄される>ことになると感じている。そして、信仰心がなく,祈ることを知らず,人の心に届く言葉を発することもなく,美しい音楽を奏でることもない,<淫らな人々>を救い給えとマリアに一心に祈っている。
けれど、いかんともし難い煩悩にうめき,闇をさまよっているのは「人々」ではなく実は「私」自身であり、この祈りは,他者のための祈りではなく,「私」自身の救済を求める祈りなのでもあるのだろう。
重く切迫したメロディーと、陰を含んだ言葉とが、<不毛な>ものの匂いを更に強く醸し出してゆく気がする。
誰かの幸せのためではなく,自分だけにとらわれ自分を離れられない祈りとは,極言すれば,我欲=我への執着に繋がってゆくことにもなるだろう。
渇望が渇望を生み続けるだけで,本当に救われることは難しく,そのような二律背反の匂いを,どうしてもここからは感じてしまう。
この曲の主人公の「私」は行き場のない愛の闇を彷徨い続け,それはもはやマリアによって救われる闇ではなく,それを知りつつ,マリアの悲しい眼差しを感じつつ,やはり救い給えと念じ続けざるを得ない。
そんな行き所のない女性の姿が、歌の中から浮かんでくる気がした。
黒衣聖母
飛躍するが、芥川龍之介の作品に『黒衣聖母』という短編小説がある。
麻利耶観音(マリヤかんのん)と呼ばれる、切支丹禁制時代に作られた聖母像を前にして、そのミステリアスな伝説が語られてゆくという筋立てなのだが、物語の聞き手は、この麻利耶観音にどこか独特の悪意に満ちた嘲笑の表情があると感じている。
物語は、このマリア像を所有していた江戸時代末のある素封家の老婦人の話へと遡る。幼い孫が、重い病にかかって明日をもしれない状態となり、これを嘆く彼女は、このマリア像に一心に願をかけるというところから始まってゆく。
如何にも芥川らしい、鋭くシニカルな味付けと気味の悪い結末が用意されていて、紹介したいのはやまやまなのだが、こういうミステリーに種明かしはご法度かもしれないので、興味のある方は直接読んで頂くこととし・・・・最後の謎解きに、マリア像の台座に「汝の祈祷 神々の定め給う所を動かすべしと望む勿れ」という銘が刻まれていたと記され締めくくられる。
「神が定めたことを人は動かそうと願ってはならない」というわけだ。
芥川ならこの曲<un Ave Maria >の女主人公の祈りをどう断ずるのだろうかと少し興味深い。
今回のこの曲の訳詞については、原詩からの自分のイメージを敢えて優先することにしたのだが、この曲を通して「私」が呻くように唱え続けるもう一つの天使祝詞・・・「もう一つのアヴェ・マリア」を伝えてみたいと思った。
これも,やはり切なく悲しい、祈りの形なのではないかと思われてならない。
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