「ノワイエ 〜溺れてゆく君〜」     

初出ブログへ 2011_11_24

「ノワイエ 〜溺れてゆく君〜」

 1972年のセルジュ・ゲンズブールの作品である。
 原題の< la noyèe >(ラ・ノワイエ)は、溺死者という女性名詞なので、「溺死した女」という意味になろうか。
 そもそもはゲンズブールがイブ・モンタンに提供した作品だったのだが,結局レコーディングされないまま未発表曲となってしまった。
 ただ一度だけ,ゲンズブール自身がテレビ番組で歌った貴重な映像が残っていて,没後1994年に彼のビデオを集大成したものが売り出されたが,その中にこれが収められていたのを入手し聴いてみた。
 何があっても決して乱されることのないゆるやかな川の流れのように,シンプルに淡々と歌っていたのが印象的だった。
 一人の女が溺れ死のうと,それを男がどんなに引きとめようと,恋が終わろうと成就しようと,そんなことには何の意味もなく,時は忘却の中に全てを流してゆく。あっけらかんと何気ない日常として全ては終わってゆく,そんな、のんびりとうたた寝でもしそうなくらいのピッチでこの悲劇が歌われていくところがまさにゲンズブール的な世界であり,だからこそ実に悲しいという逆説的な効果を生んでいるように思われた。

   君は流れてゆく 思い出の河を
   僕は君を追いかけ 岸辺を走り続ける
 
   
やがて 君は力なく溺れてゆく
   僕は 君の思い出の河に 身を投げる 
   そして二人は 忘却の海にたどり着き 結ばれる
 
 人が溺れて流されてゆくにもかかわらず,綺麗な単色の水彩絵の具で描かれたような不思議なメルヘンチックな絵が見えてくる。
 水は透き通っている。

 

 恋人ハムレットと心を通わすことができない悩みに打ちひしがれて,ついに狂いの中で入水してしまったオフィーリアがふと思い出された。
 このシェイクスピアの悲劇は、物語自体に、絵心を誘われるところがあるのか,古今東西、多くの画家たちが、流れるオフィーリアの絵を描いている。写真は私が好きなその中の一つ、ミレイが描いた「オフィーリア」である。
 そういえば、人生そのものが演劇的で、その中で常にニヒリストを演じようとしたハムレットに、ゲンズブールは少し似ているかもしれない。

WEB松峰綾音

 

 日本では1995年に発売になったCDアルバム「ゲンズブール・トリビュート95 ゲンズブールに捧げる俺の女達」の中に、永瀧達治氏の訳詞で「ノワイエ(溺れるあなた)」の曲が収録されている。
 この訳詞では、溺れてゆくのは40歳の男,それを見ているのは20歳の私・・・・と独自な設定となっているが,ジェーン・バーキンをはじめ,年の離れた若い歌手や女優達と多くの浮名を流したゲンズブールの実像と強く重なった訳詞と言えようか。
 
 2002年のクミコのCDアルバム「愛の賛歌」にも,この訳詞での「ノワイエ」が歌われており,色々なシャンソンライブで時々耳にする「ノワイエ」の歌詞も,ほとんど永瀧氏のもののように思う。
 私は原詩の通り,流れてゆくのは女性としたが,やはり曲の印象は随分異なってくる。

 ゲンズブールが存命であればなぜこの「la noyée」を未発表曲のままにしたのか聞いてみたい気がするが,フランスでも最近この曲はとりあげられているし,やはり素敵な曲は作者の知らないところで、ずっと生き続けていく生命力を持つのだろうかと,何かとても嬉しくなる。  
                               

Fin  

(注 訳詞、解説について、無断転載転用を禁止します。 取り上げたいご希望、訳詞を歌われたいご希望がある場合は、事前のご相談をお願いします。)